後藤和智『お前が若者を語るな!』

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)
パラパラと読む。ま、著者が問題にしていることはわかるし、確かに枠組みありきの立論や、実証性が必要にも関わらずそれがないものなどは批判されてしかるべきだろう。ただまぁそれだけで全部批判した/できたことにはなんないよなっていう。実証性が必要なものと必要でないものがあるはずで、批判する前にそこを見極めないと、批判する側もまた「枠組みありきの立論」に陥るし、この本もそうなっている部分があるんじゃないかな。
と言っても批判されている人物の言説を全て追っているわけではないので、かなり印象論になってしまうかもしれないけれども、それを感じたのは東への批判部分。例えば東の『動物化するポストモダン』というのは、実証性が必須の論ではないはず(あれは「動物化」のわかりやすいサンプルに過ぎない気が)。「環境分析」についても著者は単なる世代論として言及するけれど、そんな単なる社会反映論として東は立論してないはずで、あれはむしろ「構造分析」に近いんじゃないかな。あ、「構造分析」も東のところで批判的に使われていたけど。あと東が精神分析を意識して書いてることも見てないし。むしろここで批判、というか問題にするべきは東の論やキーワードを微妙に読み替えつつ(あるいは誤解しつつ)、別の文脈に適用していく流れや、なぜそれが力を持ちえたのかというような点じゃないのかね。つまり著者は、東を「「ゼロ年代のアカデミズム」の先導者」としているけれど、東の言説に「客観性がない」のになぜそれが広汎に受け入れられたのかを探るべき。単にそれが典型的な世代論だったからというのは、「枠組みありきの立論」になってしまうだろう。他の論者についてもその方が建設的じゃないだろうか。
著者のスタンスも論旨もほぼずれていないだけに、言説分析としてかなり甘い部分が散見されることが残念。ちなみに新書という媒体の性質上、それはしょうがないということもできるけれど、著者自身、批判する言説が乗っかっているメディアの性格や文脈をきちんと考慮に入れてないように思われるので(だって「ギートステイト」はSFでしょ)、それを言ってしまうとこの本自体の意味がなくなってしまう。もうちょっとじっくりと言説分析したものにすれば、いいものになったと思うんだけど。