『インシテミル』米澤穂信 ≪評価:3+≫

インシテミル
さてさて米澤穂信の新刊は、なんとも評価のしにくい一冊となっておりました。
謎の題名「インシテミル」は(本格ミステリ的ガジェットに)「淫してみる」でもあるということが、冒頭に置かれている“館の見取り図”からして窺われ、本格ミステリ読者にしてみるとテンション急上昇てなところだけれど、そして「淫してみる」の言葉に大きな偽りはないけれど、まぁなんとも底意地の悪い「淫してみる」であることか(決してけなし言葉ではない)。その底意地の悪さは確かにこの作者らしいと言えるもののしかし、その先にある(と思われる)試みは奇妙に不徹底な印象で、作品全体としてアンバランスじゃないか、と思わされる。このアンバランスさこそが作者の試みである、なんてことは思えない・・・。以下、内容に触れつつ。
すでにいくつかの指摘がされているけれど、まずもって様々な点でメタミステリであり、より正確に言えば「メタ新本格」とでも呼べるかもしれない作品(クローズドサークル、ミス研、館もの、動機の欠如=内面の欠如・・・etc)。またノックスの十戒を奇妙にもじってみたり、個々人に渡される武器の説明にわざわざ本格の古典とされる、しかもその中でもなかなか読まれない作品を挙げてみせる辺りには、この作者らしい意地の悪さが見える。そして「メタ新本格」的な点は、こうした要素のみならず構造にも顕れている。「新本格」初期における一つの形として、クローズドサークルにミス研が閉じ込められることで基本的に一つの価値観がサークル内を満たし、そのことで謎解き空間が作り上げられるというものがある(誰もが“論理的”解決を求めるというお約束)。この作品では主人公ともう一人はミス研所属だが、他の人物はそうではなく、二人がミス研所属であることも終盤まで伏せられている。つまりそれは366〜367pでの主人公の述懐のように、本格ミステリ的論理が必ずしもある共同体内部において真実とはならない、ということであって、これは当然、本格ミステリの文脈で言うと「後期クイーン的問題」に繋がるし(それは真犯人による告白においても顕れている)、そもそも本格ミステリの抱える根本的な問題でもある(後期クイーン的問題とは別な形での)。こうした観点から振り返ってみるならば、サークル内部でのルールがとても緻密とは呼べないものであることなどにも説明はつけられそうだけど・・・。

ともあれこうしたことは言えるけれど、その点にはあまり感心しなかった。むしろ感心というか興味深く感じたのは、こうした構造が九〇年代の本格から二〇〇〇年代の“頭脳戦ゲーム”もの(なんちゅうセンスだ、オレ)の流れを踏まえているように思われるところ。つまり『DEATH NOTE』辺りに端を発するような、何かしらかのルール上で敵対者と頭脳戦(?)を行うようなあの手の作品(『LIAR GAME』とか『未来日記』とかそういうの。あぁ矢野龍王なんかも忘れちゃいけないな)だけど、これらは本格と全くの別物ではなくて、割と大きな線で繋がっていると思う。例えば九〇年代本格の特徴として〈探偵〉と〈犯人〉の二極が肥大化していくという指摘があるわけだけど、明らかに『DEATH NOTE』はその流れ上にある。そして示唆的な傍証としては『ユリイカ』における米澤の「『夏季限定〜』は本格というよりはバトル漫画のように読まれているのではないかという指摘を受けた」という発言がある。ここで重要なのはこの手の作品においては、真実を語ることは別段重視されず、むしろいかに口先八町で敵対者も含めた周囲の人間を騙す/説得するかということが重視されるという点だろう。そしてここにおいて、この作者が決して手放さないように思える共同体=社会の問題が浮上してくるだろうし、さらに本格における論理とは一体何なのかという問題も浮上してくる(氷川透の至言、「本格の論理とはロジックではなくレトリックである」(大意)が思い出される。ところで彼の新作はいつ出るのだろう?)。こうした点を拾い上げて読んでいったわけだけど、そうすると全体としてはどうにも不徹底で面白くはなかった。もちろん上記の点や〈探偵〉の特権でもあるスペクタクル的瞬間を〈犯人〉が代行してしまうとかは興味深かったけど、その奥というか先が見えてこなかった。

とはいえ〈犯人〉に至るロジックやらは、この作者らしくガチガチではないにせよそれなりの説得力が持たされているし、閉鎖空間により生じるサスペンスなどもあって読ませる作品だと思う。で、これは続編出るのかね。
〔追記〕
そういえば367pの後ろから二行目にものすごく不可解な記述があって、読んだ瞬間、爆笑して、その後十数分混乱していたんだけど、これは誤植ってことでいいんですかね。444pの一行目も誤植。もう少し丁寧な仕事をお願いしたい。