古野まほろ『天帝のはしたなき果実』 ≪評価:1≫

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)
久方ぶりのトンデモ地雷本キタヨー、なんて笑ってすませられないのはこの本の販促として『虚無への供物』と宇山日出臣の名前を掲げているからだ。いや別に自分は『虚無』を最高に面白い小説でありミステリであるとは思うけれども妄信的な肩入れなぞはしてないし、宇山氏にしても同様なんだけれど、にしてもこれはあまりにそれとは似つかわしくない。ほんとに宇山氏は褒めたのか。以下は展開を予想させると同時に今作をほとんどけなしています。
九〇年代の「日本帝国」というパラレルワールド的な設定の下、実際の現代では描けないようなバロック的な世界観を構築して、そうすることで伝奇的な物語とミステリを融合させている、と書けば何やら面白そうに見えてくるけれど、肝心の世界観が構築できていない。その最たる原因は語り手であり著者と同じ名前を有する主人公の壊滅的な言語センスと浅薄な衒学趣味。驚きの感嘆詞として「ぐげらぼあ」なんて言葉を使うのはひょっとしてひょっとするとかの「ゲド○バァ」へのオマージュかとも思わされもする。そして衒学趣味てのは単に本から得た知識を書けばいいってもんじゃないだろうと思うし、シニフィオン(もしかして「アン」じゃなくて「オン」に秘密があるのか!?)だのル・セミオティクなんて現代思想の用語らしきものを使っているところなどに顕著だけれどそれを用いる意味が全くもって不明。この人はソシュールクリステヴァも未読もしくは読み込んでないんだろうな*1、と思ったら巻末の参考文献には『現代思想ピープル101』と『現代思想の遭難者たち』の名前が。ついでに登場人物のほとんどが仏・独・露語でもって会話するってのは何の冗談なんだろう(本文では日本語に各国語をカタカナにしたルビがふられてる)。まさかこれが雰囲気造りなわけないよね。
そんな苦行を乗り越えて、400ページ半ば辺りからようやくミステリ的な雰囲気が漂いだす。ある人物が殺され、登場人物が自らの推理を順に述べていき(そしてそれは各自異なるポイントから進めていく)、そしてすぐさま推理が失敗に終わっていくという場面は明らかに『虚無』を意識したものではあって、それなりの推理の入れ替わりにきちんとミステリ書けるんじゃ、と思うのも束の間、その先に待っているのは唖然の展開。いやここのミステリ部分はそれなりの出来ではあって、犯人特定に関してもトンデモてなわけではない。しかしその犯人の裏の顔と物語の裏に隠されていた設定は見事にトンデモで、前半の意味深(?)な冗長っぷりはこのためのものか、とハッとするはずもなく作者が何のためにこんなオチを持ち出したのかが非常に理解に苦しむもの。もちろんこれが何らかのテーマなり何なりのためであればよかったけれど、どうもそうも思えず、はっきり言って幼稚なものにしか思えなかった。大体、秘密の場所に眠っている絵画のすごさを強調するのにマティスゴッホフェルメールピカソドガカラヴァッジオダ・ヴィンチシャガールの真作という基準を持ってくる辺り、正直読んでるこっちが恥ずかしくなる(しかもそこには金やらロマノフ王朝の財宝やらウィルス兵器、はたまた核まであるんだって!)。なんとなく『ミステリ・オペラ』からも影響を受けているんだろうなと思うけれど、大戦間の満州という要素を上手く取り入れたあの作品とは、やはり構築の度合いが別物。下手にそういうことはしないほうがいいんだろね。
正直なところを言うと、本格ミステリとしてはほとんど見るところはなく、おそらく本格ミステリを期待して手に取った読者は少なからず絶望すると思うけれど、むしろこの作品は伝奇であって、その中の一つの事件を本格の手法で解いたものという前提で読むと、読了後のやり場のない諸々は少なめで済むのかな(当社比)と思うのであります。後半の一部で見せた推理の応酬を見ると、きちんとミステリ書けるかもしれない作家だと思うので、地味でいいのでそうした点だけに焦点を合わせ、ブラッシュアップした次作を待ちたいな、と。
というか、これを褒めている宇山氏といい有栖川といい講談社といい、本格ミステリ読者に対する壮大な釣りのように思えてきた。座談会でどういう言及をされていたのかが気になる。明日調べてみよっと。

*1:念のために言うなら、だからといって自分が全て理解してるというわけではもちろんない。