『ゴーレムの檻』柄刀一

ゴーレムの檻 (カッパノベルス)

博物学者、宇佐見博士はふとした瞬間に異世界に迷い込む体質の持ち主。今日も今日とて迷い込んだ異世界にて謎に直面する。エッシャーの絵画が現実に存在できる世界での建物消失―「エッシャー世界」、シュレディンガーの猫を模した装置に仕掛けられた死のゲーム―「シュレディンガーDOOR」、空白の物語内で繰り広げられる見えない人の謎―「見えない人、宇佐見風」、17cにイギリスの牢獄で起こった脱出不可能な牢獄からの人間消失―「ゴーレムの檻」、そしてその現代版とも言うべきカルト教団の神殿における人間消失の謎―「太陽殿のイシス」、以上の5短編から成る『アリア系銀河鉄道』に続く「三月宇佐見のお茶の会」シリーズ第二弾。

現代本格ミステリには様々なジャンル内ジャンルが存在するが、その内の一つに「異世界本格」とも呼ばれるものがある。本格ジャンルには読者が知りえなかった情報等を使って謎を解決してはいけないという約束事がある。しかし現代本格ミステリはこれを逆手に取る方法を編み出した。解決の前に読者に全ての手掛かり等が示されていなければならない――これを裏返しにするならば、例えどんなに突飛な「論理」やルール、情報であっても、それらが事前に読者に明示されていれば本格ミステリとしての骨格は崩れない、ということになる。現代本格ミステリは、この方向を突き詰めることでもまた多くの佳作を生み出した。山口雅也『生ける屍の死』、西澤保彦のSFミステリ諸作、麻耶雄嵩京極夏彦の某作、等々。
解決に使われる情報を事前に提示しておけば本格足りえる、という発見。こうした作風は様々な名で呼ばれるが、ここでは「異世界本格」としておこう。シリーズ前作『アリア系銀河鉄道』はこの方法論を突き詰めたような作品だった。そして今作。前作で仄めかされる程度だった「神の視点」というものが今作ではよりはっきりと打ち出されている。「神の視点」を手に入れることで謎が解ける「エッシャー世界」や”世界の内と外を反転させる”という「ゴーレムの檻」などにそれは顕著だが、同時に「見えない人、宇佐見風」で語られる「知覚の届かない者同士の間では、私たちの現実は、互いに空白のページの中にある」という言葉にも注意したい。この言葉を読んで思い出すのは西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』における主人公のセリフだ。

・・・。人間など精々、自分のことを把握するだけでも手一杯なのだから、家族や友達、学校や職場、その程度の範疇内をだけ指して、僕らは『世界』というのだと思う。無限大に近い莫大な世界の中における酷く個人的な世界。・・・

作品中でこの言葉はいわゆる後期クイーン的問題への一つの対処法――それはあまりにも乱暴でシンプルだが、一方で一定の有効性を保っているのではないか――として言明されているとも取れる。「見えない人」のこの言葉も同じ方向を向いているのかもしれない。翻ってみれば、山口雅也のキッドピストルズシリーズは「異世界本格」の一つの変奏でもあり、その作風は”狂人の論理”といった言葉に代表されている。これはつまりは一人の人物の内的世界を周囲、それは西尾のいう「酷く個人的な世界」になるのかもしれないが、と直接に接続してしまうという方法論ではなかったか。そしてそこではその人物の内的世界を理解したもの(それは他者という不明な存在としてではなく、メタレベルに立つことを意味してはいないか)が真相を見通せる。結局、一人一人にとって世界とは個人的なものでしかなく、時に一人の個人的な世界が周囲の人間の世界を染め上げてしまうことが起こる。その際に起こる軋み、歪みこそが謎となる。その最たるものが表題作「ゴーレムの檻」だろう。物語世界が一つであるという認識こそがゲーデル的問題、後期クイーン的問題を生み出す。しかし物語世界の中で起こっているのは「個人的な世界」の衝突劇だとするなら、その「世界」の「論理」を理解することは不可能ではない。そして「世界」の全てを把握できずとも、その「論理」を理解できたものは”神”にも成りえる。”神の視点”と「見えない人」の言葉は矛盾するものではなく、こうした可能性へと向けられている。宇佐見博士は様々な異世界を旅するが、実はその「異世界」とは誰かの心の中、誰かの「個人的な世界」なのかもしれない。