『ドッグヴィル』

ドッグヴィル プレミアム・エディション [DVD]

早いうちに書いとかないと忘れそうになるので簡単にだけど書いときます。結末についても言及しているので、知りたくない方はお気をつけください。

まず『ダンサー〜』でも見られた観客の感情移入を阻むような構造がより明確になっていると思う。それはドッグヴィルという村を、スタジオの床にチョークで書いた白線とわずかなセットで描いていること。まるで前衛的な劇を見せられているようなこの方法を取ることで、観客は自らの見ているものが一つの虚構であることを否応無しに突きつけられるわけです。またそれだけではなく、グレースという余所者に対する村人の無言の視線と、それをひしひしと感じるグレースの感情、これを実に上手く描写してもいます。そのことがはっきりわかるのが前半でグレースが監視されているように感じる場面。虚構の中では、グレースはまるで監視されているような気がするだけのはずですが、実際には村人全員がチョークで描かれた家や壁の向こうから彼女をじっと睨んでいるという構図が取られています。この辺りはこの前衛的な手法が単にそれだけではなく、作品構造に上手く生かされている証といえます。
見ていて考えたことをもう一つ。まず「贈与」と「交換」について。簡単に区分するなら、「贈与」には相互の関係性があり、「交換」にはそうした相互の関係性がない。より噛み砕いて言うならば「贈与」とはその行為自体に意味があり、「交換」とはその行為の結果、何が得られるかが重要となる。しかしここで問題なのは「贈与」という行為には、それに対するお返しをしなければならないと思わせる暴力性が付与されてしまうということだ。トムはグレースのことを天からの贈り物のように考えるが、この「贈り物」という言葉に象徴されるようにグレースと村人の関係は最初から最後まで一貫して「贈与の関係」といえる。しかしそのレベルは物語が進むにつれ、変わっていく。トムがグレースを助けたことは、辛うじて純粋贈与と言えるかもしれないがすぐにトムはグレースに、村人への見返りとして働くよう提案する。ここでグレースと村人の関係は純粋贈与から交換を内包した贈与へと変化してしまう。その後、村人の求める見返りは大きくなっていき、文字通りの暴力へと導かれる。おそらくここには「贈与の暴力性」がデフォルメした形で描かれているといえる。デリダは(純粋)贈与とは「与えたこと、あるいは受け取ったこと自体を忘れ、しかし忘れたということは保持すること」によって可能になるとしているが、この映画ではそれはすでに絶たれている。グレースは「赦す」、つまり全てを認識した上でこの関係を受け入れようとするから。純粋贈与から交換への道へと踏み出した関係性は、やがては等価交換という形で落ち着かざるを得ない。つまりそれはグレースの村人への暴力。だからこの映画はグレースの報復という形で終わっている。ううん、ロジックが滅茶苦茶ですが、この二者の関係性からは何か言えそうだと思うのです。「犬」というキーワードも重要なんだろうなぁ。とにかく見るものを考えさせる作品。