「脱格」系についての…

以前に少し疑問に思ったことがネット上で議論されてる。二階堂黎人の『失はれる物語』書評についてのことだけど。詳しくはMystery Laboratoryの「大森氏〜」面白いミステリを探して東奔西走!を参照してもらえばいいと思う。こうした議論からはやっぱり「脱格」系という言葉が一人歩きしているという印象を強く受ける。「脱格」系について感じたことを書いてみよう。そもそも「脱格」系とは、名付けた笠井潔によると

清涼院から西尾にいたる「本格読者に物議をかもすタイプの作品」を、いずれも本格形式を前提としつつ、形式から逸脱する傾向が共通していることからここでは便宜的に「脱本格」、略して「脱格」系と呼んでおくことにしよう

というものだ。それに対し二階堂黎人は「脱格」を

本格推理小説の持つ様式美とトリック中心主義からあえて離れよう、あるいは、意図せずともそこに達することのできない作家たちの心情や技術的未成熟さを看破したもの

としている。そもそもここから「脱格」系に対する認識の大きな隔たりが見えてくる。それを踏まえて「脱格」系について思うのは、「脱格」系の定義が上記の笠井の定義ではなくて「オタク系文化」の要素が入っているもの=「脱格」系と考えられてしまっている傾向があるのではという疑問。笠井自身も上記の後に

「脱格」系作家には共通して、マンガ、アニメ、ゲームをはじめとする
オタク系カルチャーの圧倒的な影響が指摘できる

としているが、乙一を「脱格」系に分類はしていない。(乙一について笠井は「現代的に「壊れた」キャラクターをリアルに描き出しながらも、本格ミステリの形式性は少しも「壊れて」いない」と述べている)単に佐藤や西尾といった「脱格」系作家と世代意識が共通していると言っているだけだ。また笠井が「脱格」系に含めている北山猛邦の作品は「オタク系文化」の要素は入っているが彼の作品で試みられているのはある種、愚直なまでの本格ミステリといえる。そうした部分をきっちりと分けて考えなくてはいけないと思う。
海燕さんは「脱格」系と「キミとボク派」は=で結べないとしているけど僕もそれには同感だ。ただそれは

乙一は落下する飛行機のなかでのハイジャック犯と人質のやりとりというとんでもない設定の小説も書いている

というような部分から導き出すものではないと思う。設定云々と作者の身近な体験が書かれた部分というのは区別して考えるべきだ。だからThomas_Tompsonさん(面白いミステリを探して東奔西走!の管理人さん)の考えにも全面的に同意できない。乙一を「脱格」系作家と考えている点で、既に二階堂黎人笠井潔の認識の間にはズレが生じている。と言いつつ、僕も以前にこのことについて書いたときには海燕さんと同じようなことを書いているので人のことは言えない。二階堂黎人は「キミとボク派」を

書かれている内容が、作者を中心とした身近な体験ばかり−−たとえば、親子関係、兄弟(姉妹)関係、生徒と先生の関係といったことばかり−−であることを端的に表現したもの

としているが、これはすごく曖昧な定義だと思う。むしろもうこれは感覚的な問題になってしまう。あえて近いものを挙げるならば青春小説という括りが近いだろうか。これでは下手すると二階堂黎人の蘭子シリーズも「キミとボク」的な作品と言えてしまうかもしれない。まぁ、そんな揚げ足取りみたいなことはいいんだけど、だからといって

でも、「キミとボク」の関係みたいなことは、読者は誰だって知っていることで、面白くも何ともない(『猪苗代マジック』巻末インタビューより)

と断言してしまうことはよくないだろう。いくらその後に、「そこから視野を拡大していってほしい」と言っても。あと彼らを本格ミステリの領域のみで考えることはできないという海燕さんの考えにはすごく同意できるし、同時にThomas_Tompsonさんの本格ミステリの価値観から彼らを評価することも必要という考えにも同意。