田代裕彦『赤石沢教室の実験』 ≪評価:3+≫

赤石沢教室の実験 (Style‐F)
なんとなく久しぶりな気がする田代裕彦の新刊は、なんと富士見の単行本路線。この作家にはぜひミステリフロンティア辺りで書いてもらいたかったので、個人的に非常に喜ばしい。
で、内容ですが、あぁ確かに『キリサキ』『シナオシ』というある意味でアクロバティックな作品を書くこの作者らしい作品でした。とはいえ、実は先の二作よりも幾分、わかりやすいものに仕上がっているというのは、あとがきで作者自身述べているように、「ファンタジックな設定」というものを導入しなかったから、ということになるのか。とはいえライトノベル色(ってなんだという話もあるけれど)を除いたことによって一般層にも受け入れられる余地が生まれたという点で、今後に期待が持てる。わかりやすい比較対象としては、綾辻行人『緋色の囁き』が割りと近いんじゃないだろうか。以下、内容に触れるような触れないような。
基本、二人称で進むという構成は、その性質上、「君」と「僕」の関係性を読者に強烈に意識させざるをえず、こういうネタの場合、扱いが難しいと思うんだけど、この作品はある一点によってネタを見破られにくくしている。そのある点とはライトノベル等では割と見られるもので、その意味でこの作品は面白い。おそらく普通のミステリ作家がこれを用いると、少しアンフェアに思われるだろうけれど、ライトノベル畑出身のこの作家が使うことはありだと思わされる。ただし固有名詞を覚えられない人物が登場するなど、ミステリーとして割り切った面がかなり顔を出すので、上記の点もありかなぁ。
さて放言するならば、端的に言ってこの作品は〈死〉とそれに対する欲望の転移を描いた作品だと思う。そもそも〈死〉とは自らが絶対的に経験できないという点において、否定的に考える他ないもので、赤石沢はそれをまずは絵や彫刻といった表象によって捉えようとする。しかしもちろんそれは挫折し、今度は別な人物に〈死〉を投射することで捉えようとする。その過程で起こったものが片桐あきらの死であり、そこから物語は展開していく。最終的には赤石沢と思われる人物が殺される描写で終わるけれど、物語を終わりから眺めてみれば、登場人物のほとんどが〈死〉を追い求め、様々な人物にその欲望を転写させて捉えようとしていたことがわかる。そして犯人の明確な動機は作中ではわからないとして記述されない。結末に至って、読者は赤石沢の〈死〉への欲望が別な人物に移り変わっただけということを知る。結局のところ、作中人物は〈死〉という超越論的・否定的なシニフィアンに憑かれているのだ。そう考えると赤石沢が人の名前=固有名を覚えることができないということもなんとなく見えてくる。固有名の性質とは、記述によっては見出されず、やはり否定的に見出されてしまうという意味で、〈死〉の否定性と結びついてくる。そこにこの作品のトリックであるナラティブな面を重ね合わせるとどうなるか、と思ったんだけど、なんだかよくわからなくなった。