桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』 ≪評価:4+≫

赤朽葉家の伝説
すでにネットのあちこちで絶賛の嵐と言ってもいいほどの評価を受けている今作。正直に言うとやはりそうした作品はどこか身構えて読んでしまうわけだけれど、まぁなんというか前評判通りの作品ではありました。読み終わった後に考察めいたものを書き付けておいたんだけど、手違いによりそれが紛失。なのでいつもよりさらに粗い感想かも。以下、作品内容に触れます。
まず冒頭と結末の対比が鮮やか。上昇と落下という対比は、テーマ的には非常に陳腐とも言えるものだとは思うけれど、これを簡単とは言えミステリ的な構造と絡めた点がなかなか。さらにミステリ的というところに関連させれば、万葉の幻視というものを隠れ蓑のようにして描いているのも上手い。そしてその対比が明かされたときに、読者はそれが作品のテーマとしても流れていたことに思い至る。赤朽葉家という架空の旧家を基に据え、これまたある架空の地方(村)の戦後近代史を語っていくわけだが、それこそ取りも直さず上昇と落下の歴史でもある。その意味で、今作は近代相対化の匂いも漂わせている。
「近代」とは作中で何回か言われる「だんだん」である。「だんだん」を一歩ずつ昇っていくことで必ずやよりよいものに移行するという単線的なもの。しかしもちろんそれは瞬間的なものであり、また絶対に転げ落ちないというものでもなく、そして登り詰めたら至高に至るような最後の山でもない。
探偵小説研究会のブログで鷹城宏が書いているように、女性三代の年代記はそのまま大澤真幸の時代区分に対応しているように思われる。これはかなり意図的なものであると思うけれど、鷹城宏が書いていないことを言うならば、毛鞠による自己の物語化という点は重要ではないか。万葉の時代がある種の「神」のようなものが終わり、「理想」という「大きな物語」に取って代わられた時代ならば、毛鞠の時代とは「大きな物語」が共有されず、私的な「大きな物語」が信じられる時代である。大澤であれば「虚構」であるが、まさしく毛鞠のマンガは「虚構」でありながら/あるからこそ指示されていった。そして瞳子の時代は「虚構」すらも逃げ場ではなく、唯一「熱くなれる」ものとしての「恋愛」も「語るべき」ものではないと言われる。つまりは全てが相対化の視線に晒されている。…なんか話が脱線している。要は日本の戦後近代をかなり忠実になぞっているように思われるということ。そして最終的には「だんだん」という自明にも思われたこともまた相対化の視線に晒される。「近代」の絶対化という上昇と、相対化という落下、今作はそこに収斂していく。
そうするとみどりの兄じゃの話は示唆的である。「だんだん」の下に転げ落ちた兄じゃはいわゆる「狂気」の人である。フーコーが言うように「狂気」とは「近代」が必死に囲い込み、「外部」を「内部の外部」として取り込みつつ投げ捨ててきたものであるが、そうするとやはり「自由」という瞳子に付けられる予定だった名前が気になってくる。「近代」においては「市民」という概念の誕生と共に、人々はあまねく国家に管理される/されるべきものへと生まれ変わったわけだけれど、それは言うなれば「自由」を失ったことでもある。そこにおいて人々は「誰でもいい誰か」から「誰でもない誰か」へと再構成される。丹生谷貴志はそんな「自由」の空間は、もはや例えば「狂気」の空間や監獄にしか存在しないようになると論じていたが、「狂気」の人、兄じゃと同じように「近代」という「だんだん」の下に落ちた、と言われる彼女らは「自由」の空間に彷徨い出たのか。その答えは与えられない。読者は、作品末の「わたしたちがともに生きるこれからのこの国の未来が、これまでと同じくおかしな、謎めいた、ビューティフルワールドであればいいな、と、わたしはいま思っているのだ」という瞳子(=自由)の言葉と共にその先を考える他ない。

それならわたしの未来には、自由をめぐる闘いがあるのだろうか。わたしはそれを得るのだろうか。しかし、これからの時代において、わたしたちの自由とはいったいなんだろう

とまぁこんなようなことを考えて読んだわけだけど、結構陳腐な読み取りだと思う。そもそも近代史を描こうという試みからして相対化の視線はどこかに入り込むものだし。昨日の日記で「ただ・・・」としたのは、そんな単純な作品じゃないだろ、という思いがあったため。詳細に読み込めそうな気がするのは、やはり「幻視」と毛鞠には何故か見えない百夜の存在か。ひとまずまず単純に面白い年代記でした。というわけで中途半端だけど、これにて。