京極夏彦『邪魅の雫』 ≪評価:4≫

邪魅の雫 (講談社ノベルス)
先日、簡単なコメントを書いたけれど、やはりこの作品は本格ミステリとは声高に言えないし、いろいろと評価が低いということもわかるのだけれど、いくつかの論点があって、これからミステリを考えていく上で参考になると思う。
妖怪シリーズというものをミステリ的に俯瞰すると、そこには二つの特徴が見えてくる。その二つが現代本格ミステリにおいて主題的に扱われたものだという点で、このシリーズの重要性はやはり大きい。それは、異なる価値体系によって生み出される謎というものの前景化と操りという二点。もちろんこうしたものは、何も妖怪シリーズが先駆というわけではないけれど、前者であれば『姑獲鳥の夏』が、後者であれば『絡新婦の理』が一つのメルクマールであることは間違いない。今作では、この二点が上手く組み合わされているという印象を持った。とはいえ、すでに多くの人によって為されている、退屈だ、冗長だといった点は否定できない。誰だかわからない人物のモノローグが挿入される手法は、『絡新婦の理』でも行われていたけれど、あの作品では作品全体の仕掛けがわりと早い段階で明かされていたので、そちらに読書の吸引力があった。しかし今作では構造的にその手法が取れなかったので、読者は先行きが不透明なまま読み進めることになる。この辺りはもう少し上手く書くこともできたんじゃないか。
まぁここではミステリ的な点に絞って考えたい。この作品の主眼は操りの崩壊というところにある。何度も言うようにその意味で『絡新婦の理』の裏面なのだけれど、ほとんど完全な意味での操りを描いたあの作品に対して、今作では操っているはずなのに何故か犯人の意図からずれてしまうという点を描いている。端的に言って操りが内破することが描かれている。ここが一番面白い。つまり超越的な位置にいるはずの犯人がその位置からずれてしまい、その位置に誰もいなくなってしまうという事態*1。ただやはりミステリに限って言うならば、こうした点は当然、巽が論じるような「壊れた世界」などの点ともリンクしてくるもので、興味深い。そしてこの巽の論を媒介として、前述した妖怪シリーズの二つの特徴は結びつくわけだけれど、それはまた別の機会に*2。そしてさらにミステリにおける「名前」という問題系にも関係してくるんじゃないか。単純に偽名を使うということは、ミステリ的にはもはやデフォルトと言ってもいいわけだけど、今作では操りの内破という点に、犯人が乱発する偽名の問題が関わってくると思う。これは今後、展開の余地があるかもと。上手く展開できたらここで論じてみるつもり。

*1:なんかこれって、事件の中心にあるものが毒薬ということを含めて(「対象a」!?w)、ジジェク的な言説で簡単に割り切れるようで、その意味では面白くない。それに『絡新婦の理』でも今作でも、結局は犯人の上位に京極堂が位置してしまうわけで。

*2:ここではおそらく『鉄鼠の檻』が手掛かりとなるはず。