かなかなかな…

ひぐらし、最終話、祭囃し編たった今読了。おもしろかったですたい。第一話からだと、延べ数十時間に及ぶプレイ時間だけれど、楽しませていただきました。とはいえ全体を振り返るとどうなのかなと思うところがないでもない。ネタバレなので続きに書くでな。
こうして振り返ると自分にとってひぐらしの魅力は鬼隠し編のあの雰囲気だったんだなと思う。あれは初回では怖かった。実はこれと同じ印象を、三津田信三『厭魅の如き〜』を読んだときも思った。これは何なんだろうなぁ。一言で雰囲気とか言ってしまえるけれど、その感覚が結局のところ文字でしかないもののどこから来るのかを考えたい。あ、や、この場合イラストと音という要素もあるから一概には括れないんだけど。

この世界構造は梨花の死によってリセットが行われるというもので、いかにしてそれを回避するかというのが梨花の目標だったわけで、それがどうにも回避できないためにいったんはそれを運命と感じてあきらめる。でもそれが鷹野の意志の強さによるものとされた時点で、これは意志と意志の戦いになり、そこでは運命という言葉の後ろに想定される超越的な存在がなくなっている。だからこそ仲間が力を合わせることでそれを打ち破るという方向にいくけれど、最後の場面で梨花は、本当の奇跡として超能力を使って危機を回避する。ここにちょっとあれれと思うわけです。それしちゃったら結局、超越的存在がどちらにつくかで天秤が傾くという構図にならないか。そうすると仲間や信頼による、つまり人の協力によって何かを打破するというこのゲームの世界観が崩れてしまわないか、なんてことを考えましたとさ。ここらへん東のゲーム的リアリズムと絡めて何か言えないのかな。というか誰かもう考えてそうだね…。ま、何か思いついたら書きます。どうやら隠しEDなるものもあるようだし、とりあえずそれを見てみよう。あぁ、寝ずに見てしまいそうだ。