『忘れないと誓ったぼくがいた』平山瑞穂 ≪評価:4≫

忘れないと誓ったぼくがいた

「ぼく」と彼女が出会ったのは、高校三年生の夏、メガネショップにて。高校で偶然、再会した「ぼく」と彼女は高校を抜け出して遊園地に行ったんだ。でもカフェで話してたと思ったら、いつのまにか彼女が消えていて・・・。

以前から興味がある作家だったので既刊二冊を買ってみて。で、さらっと読めそうなこちらから読んでみたわけですが。いや面白い。題名や表紙、あらすじを見る限り、昨今の「純愛ブーム」みたいなものに乗っかった作品に見えるかもしれないけど、これはかなり技巧的な小説であり、一種の批評的作品でもあり。実によかった。
この作品を単純に読むなら、〈消える〉運命を持った少女あずさは、それこそ死へのカウントダウンを聞いていることと同じになる。そこだけを読み取ると、いずれ〈消える〉=死ぬ少女と「ぼく」の悲しい恋愛小説になる。しかし作者はここにアクロバティックな仕掛けを施す。それはあずさが〈消える〉だけではなく、その時には周囲の人物が持つ彼女についての記憶も無くなってしまう、という仕掛け。それは当然、語り手である「ぼく」も例外ではなく、そのことを知った「ぼく」は彼女を記憶に留めておくために、彼女との出来事全てをノートに書き写し、毎日それを読むことで消えた記憶を埋めようとする。当然、そこから常に発せられる問いは帯にもあるように「君はホントに存在したの・・・・・・?」であって、さらにその問いは「ぼくの世界は、こわれかけている」かもしれないという自分という主体への不安に転化する。自らの不確実性を解消するために必要とされるのは、「彼女が存在する」という事実であり、つまりあずさという少女と出会ってしまった以上、主人公の同一性(と言ってしまうけど)を担保するのはあずさその人になってしまう。いくらノートをとったとしても、それは彼女の存在を保証しはしない。だからこそ主人公は、彼女の存在を確かめることを恐れるし、また何度も彼女に電話をかけて彼女の肉声を聴こうとする。この仕掛けにこそ、この作品の根幹がある。
物語において、主人公の努力空しく、彼女は〈消えて〉しまうわけだけれど、その後主人公はこう考える。

それを読んでも、書かれているできごとが起きたときのことを思い出せるわけじゃない。ただ、それを読んで、どんな場面だったのか想像することはできる。(中略)仮に、あずさを知らないほかの人たちがこのノートを読んだとしたら、彼らはその文章に使われている言葉を素材にして、頭の中で想像をふくらませ、ひとつひとつの場面を組み立てていくだろう。実のところ、ぼく自身がやっていることも、それと同じなのだ。

いくらノートに言葉を積み重ねても、その確実性を担保してくれる実体としてのあずさが存在しない限り、主人公が行っているのは物語るという行為以外の何ものでもなく、それは決して「真実」とは結びつかない。この部分は明らかに、「小説を読む」という行為に対する批評的側面を有しているけれど、そうした一種のメタ的な言説はしかし、この物語内容に存する仕掛けによって物語内容と有機的に結びついている。
さらに主人公はこうした認識を通過した上で、あずさがいたことを示すものとして彼女を撮影したビデオ映像を持ち出す。しかしその映像の女性があずさだという保証はやはり全くない。

その顔を見た記憶はなかった。でも、ぼくはたしかにこの顔を「知っている」と思った。それは、ぼくがノートを読んで想像していた風貌と食い違ってはいなかった。

いくら主人公自身がそう考えても、映像の中の女性=あずさという等式は一つ前の引用部にもあるように、主人公の想像の基で組み立てられたものであるという可能性は少なからず残っている。例え、その女性が映像の中で自らを「あずさ」と言明しても。
しかし、おそらくそんなことは全て自覚した上で、主人公は徹底的に彼女をあずさと信じることで生きていこうとする。

でもぼくは、できる限りのことをやってみようと思う。ぼくには、あずさがついているのだから。あずさの強い思いが、このぼくには託されているのだ。

なんともアイロニックな結末。一旦、自らの立つ位置を相対化するという手続きが踏まれているからこそ、この結末が生きてくる。自らが依拠しているのが「物語」であること、虚構であることを自覚しつつも、そこに依拠して生きていこうとするその身振り。・・・あれ? 東!? ま、東の論を援用してもいけるんじゃないかなとも思ったり。
結局のところ何が言いたいのかというと、この作品の素晴らしいところは凡百の恋愛小説の結構を使いつつも、一つの仕掛けによって「物語」を書くという行為、そして「物語」を読む行為の双方を物語内容と見事に連関させている点なのです。また同時にそれは「恋愛」というものに対しても、そのメタ的な側面を炙り出そうとする試みなのではないかとも思う。なぜなら。

恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。*1

ともあれ、こうした意識的な小説は非常に好みであります。デビュー作を読むのが楽しみ。

*1:ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(みすず書房、1980)より