『向日葵の咲かない夏』道尾秀介 ≪評価:4+≫

向日葵の咲かない夏

事件は一学期の終業式の日から始まった。その日休んだS君の家へプリントを届けようとした僕が見たのはS君の首吊り死体。でも何故か警察が行ったときには死体が消えちゃってた。そして僕の前にはS君の生まれ変わりが登場して、こう言うんだ。「僕は、殺されたんだ」 妹のミカと一緒に調査を始める僕。その頃、近所では足を折られた犬や猫の変死体が発見されていて・・・

面白い。とりあえず色々書くけど、まずは読了して感じたこの感想を大事にしたい。何故なら後ろで触れるけれど、ちょっと安易すぎると感じる点もあって、以下のような解釈は好意的に(牽強付会に)過ぎるとも思うから。で。作品内容に踏み込むので未読の方はお気をつけ下さいな。

「いま僕が話した内容が、すべて真実だとは考えないほうがいいよ。」

この作品は明らかに本格ミステリの問題系を視野に入れた作品だと思う。が、ひとまずその前に簡単に感想を。前作を読んだ際に感じたのが、ミステリ的な土台の確かさだったけれど今作でもそれはきちんと生かされている。帯に「ロジカル」の言葉が掲げられているように伏線の処理、ダブルミーニング、フェアな叙述などがきちんと出来ている。物語を構築する力もあると思うし、これからも追いかけてみようと思う作家。
うん、で、内容に踏み込んでみる。端的に言ってしまえば、この作品は本格ミステリにおける「真実」の客観性に疑義を挟んでいる。既に指摘されていることを、少しここで乱暴に整理しておくと法月が初期クイーン論で公に提出したこの問題は実作においては主に「操りの問題」として取り組まれてきた。探偵は証拠を基に推理するけれど、その証拠自体が犯人によって用意されたものであるなら、ひいては探偵の推理は犯人によって操られたものになる=真実とは限らない、というわけだ。しかしこれを回避しようとする試み(メタレベルの証拠を導入する等)は最近になって失効してきていて、巽などが指摘するように操りの構図に偶然等が入り込むことで事件が発生、あるいは複雑化していくという構図の作品が増加してくる。今作はこの辺りの問題をかなり意識的に顕在化させているように感じた。
まずいきなりネタを割ると、これは探偵=犯人ものなわけで主人公が犯人という点を隠しているがためにミステリとして成り立っている。とはいえ単純な叙述トリックではなく*1作者は二重の意味でこれを成立させている。まず自らが事件の契機だということを認めたくない主人公が、事件の真相をでっちあげるという形。そしてもう一点は死体が消えてしまったという謎を解くため。この後者はまさに偶然による操りの構図の撹乱になっている。これは後で少し触れるとして、よりあからさまな方を。それは最初に述べた客観的真実に関わる点。
当然のことながらミステリである以上、この作品でも事件に対し、一つの説明は付けられる。しかし読者は果たしてそれで納得するのだろうか。確かにS君の死の真相(としておく)と動物の変死体については、作中で真実が語られているかのように感じられる。しかし最終的にその認識はミチオ自身の言葉によって読者にとっては不安定なものへと転化させられる。

「僕だけじゃない。誰だって、自分の物語の中にいるだけじゃないか。自分だけの物語の中に。そして、その物語はいつだって、何かを隠そうとしているし、何かを忘れようとしてるじゃないか。」

この言葉は物語内容的にはミチオに対する自己説明と読めるけれど、それを読む読者はこれを物語に登場する人物全てに当てはめて読むことを余儀なくされる。実際にミチオの推理を担保するものはそのほとんどがあくまで老人の自白的な言葉によってであり、いくつかの符合する証拠は、そうも読める、というレベルでしかない。そして読者は既に知っている。この老人が信用できない語り手であることを。犬猫の足を折っていた犯人ということ、またS君の自殺体を運んだ犯人であるということ、これらのことが途中の老人の語りにおいて隠蔽されているからだ。さらに一見、事件とは無関係に思える母親の言動も真実の客観性を揺らがせることの一つの補助線になっている。単なる人形(もちろんミチオの認識だが)のことを、流産してしまった子供=ミカと思い込んでいる母親は、やはり彼女自身の物語の中にいるのだ。一応のところ、読者は老人に対して語られた物語を、事件の解決のレベルと想定して読むだろう。その点で今作はまぎれもなく本格ミステリだし、その過程に大きな齟齬はない。しかし事態はそこに留まらない。作中でS君の生まれ変わりとされる蜘蛛が何度も言及するように、この作品は本格ミステリ、あるいは物語における真実というものがいかにうさんくさいものであるかを顕わにしている。探偵の推理が犯行の再構築化=物語化である以上、「真実」もまた何かしらのファンタジーであるかもしれないという可能性はどこまでもついてまわる。これは厳密な意味での後期クイーン的問題とは微妙に異なる形での問題提出だろう。もちろん本格ミステリにおいて、こうした問題意識はそこまで目新しいものではないけれど、評価したいのは、この問題意識を探偵=犯人という構図の中で行ったこと、さらに一人称での叙述トリックを用いることでそれを読者レベルにまで適用した点だ。つまり探偵=犯人という図式を用いることで、まず偶然という近年の問題系を導入していること。これによって、操りの構図の裏で温存されていた犯人の権力性を脱臼させてしまう(まさにそのことによって物語が始動する)。これは探偵=犯人とすることで双方の権力性を剥奪してると言い換えてもいい。そして推理を相対化する視線と一人称の叙述形式を重ね合わせることで、読者自身にもこれを共有させている。こうした点にこの作品の問題意識が読み取れるのでは*2。もう一点、深読みめいたことを書いておけば、トコ婆さんの神託(?)は、後期クイーン的問題の回避策として90年代本格ミステリが導入していた超能力(=メタレベルからの証拠)として読める。そしてそれが結局、主人公の妄想かもしれないという解決からは、その回避策に対する一つのパロディのようにも思える。
ただここからはどうしても異なる問題、それは評価をためらってしまうことに繋がるのだけれど、が浮上してくる。それはこうした図式があからさまなまでに精神分析的枠組みに当て嵌まってしまうことだ。見たくないもの、認識したくないものを別な形で認識しようとするというこの図式はまさにフロイトの「事後性」や「幻想」の問題と重なってきてしまう。例えば150pに出て来る夫婦喧嘩の後の夜に聞こえてくる母の声を嫌う僕という描写は、やはり両親の性行為(=原光景)を忌避する僕の描写と読めてしまうし、そもそも物語内容的に僕は母を追い求めている。

お母さんの口は、そのときたしかに、僕の名前を呼んでいた。三年ぶりのことだな、と、最期に思った*3

それはいまや分析手法としては紋切り型でしかなく何らかの批評性を持ちうるかどうかは少し疑問になる。しかし重要な点はそのことを指摘するのではなく、その両者の関係性を見ていくことなのかな、とも思うし、より好意的に解釈をするなら紋切り型を描くことによる紋切り型批判と考えることも出来る。けれどこれはさすがに好意的に過ぎるな。それをするためにはどこかで紋切り型を抜け出すような点が無いといけないけれど、それは無いように思うし。もちろんこうした読み自体もまた俗流フロイト的読みという可能性は付け加えておきたい。
最期に物語としての後味の悪さから。この後味の悪さから麻耶雄嵩佐藤友哉を連想するのはたやすい。が、やはり問題はその後味の悪さ、壊れ方などにはなく、本格ミステリの問題系に接近している点だと思われる。この点でこそ麻耶雄嵩と近接した素質を持っているのかもしれない。そう考えるならば作中の終わりの方で明かされる主人公の本名は示唆的だ。「摩耶道夫」。おあとがよろしいようで・・・。

*1:ここでの叙述トリックというのは厳密な意味ではなく、つまり言い落としなどと言い換えてもいい。

*2:とはいえ、やはりこうした点も初めての試みではもちろんない。そして小説一般において一人称である以上、客観性が担保されないというのはもはや自明のことだということは言及しておく。今作もある小学生の妄想として片付けることはできるけれど、むしろ本格ミステリとして成立させながらも同時にその問題を顕在化させている作品として読みたいな、と。

*3:この部分はその後にエピローグとでも言うべきものがあるので留保付きで読むべきではある。