『獄門島』横溝正史 ≪評価:4+≫

獄門島 (角川文庫)

復員中に病死した戦友、鬼頭千万太の最期の言葉に動かされるように、彼の郷里である獄門島を訪れた金田一耕助。しかし、その千万太の死の知らせによって事件が起こる。寺の境内で逆さ釣りにされた鬼頭家の長女、そして釣鐘の下敷きにされた次女・・・。果たしてこの連続殺人事件の真相は。

うん、まぁ日本ミステリ史に燦然と輝く不朽の名作なわけで、実際僕も数回は読んでいるわけですが。確かに今読んでもいろいろと楽しめる部分が多々あって面白い。横溝的なおどろおどろしさは勿論のこと、事件の構成や推理部分もなかなかに考え抜かれていると思う。ただだからといって90年代本格ミステリの読者が無条件で楽しめるかという点については留保付きかな。道具立ての派手さはあってもトリックの派手さではないから。とはいえ90年代の本格ミステリ言説から翻って読んでみた際に、興味深い部分も多い。
【以下、真相を予想させる部分あり】
まず、この真相はまさに操りの構図だということ。90年代に操りの構図は、探偵の特権性を剥奪してしまう(それは当然、後期クイーン的問題へと通じる)ものとして機能していたわけだけど、この作品でも探偵である金田一は結局、犯行を阻止できずに終わる。おそらく分析してもあまり益はないけれど、そこへ繋がるものを提示している点は興味深い。
もう一つ。これは横溝作品の多くに言えることだけれど、語り手の位置かな。基本的に横溝作品は額縁小説になっていて、その多くは回想という形で語られていく。おそらく金田一が事件後に語り手に語ったものを文章化しているという形だろうと推測は出来るものの、この作品では明示されてはいない。ただこの推測に基づくならば、獄門島での事件は二重に物語化されていると言える。つまりそこでは強固に物語の構造化が行われていて、読者が物語内容から隔てられているだけでなく、語り手、さらには金田一という最初の語り手も実際の物語内容から距離を置いているということになる。構造的に言うならこれは物語の構造を統括するものとして金田一が存在することになる。しかしそんな存在が事件に介入すると事件は一瞬で終わってしまう(あるいは介入できないと言ってもいい。介入したとすればメルカトル鮎のように事件を終わらせてしまう)。そのため金田一は犯行が終了した後に推理を開陳して事件を終わらせる。そうしないと物語とならないから。金田一が事件を止められない探偵として、揶揄されるけれど、実はこうした構造的力学が作用しているんじゃないか。ということを読みながら考えた。もちろん物語内容レベルの金田一ということも考えないといけないのでこのままではどうかと思うけれど、一つの切り口になりそうな気はしてきた。