『「いき」の構造』九鬼周造

「いき」の構造 (講談社学術文庫)
「いき」とは一体何なのか。「いき」という言葉に目を向け、まずその構造を明らかにし、そこから表現の分析へと移っていく。という古典的名著と言われているもののわけですが。いや面白いとは思うけど、なぜにそこまで絶賛されるかが僕にはわからない。九鬼の行う分析方法が最初から最後までぐらぐらに揺れ動いてると思うんだけど。九鬼はまず「いき」とは「媚態」を基調としていて「意気地」と「諦め」がそれをより特徴付けるとしている。(ものすごい乱暴にまとめてることは気にしないように)で、「媚態」とは

一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度

として定義されているのですね。ここでいう二元的とは男と女として考えられている。でもそれが表現の考察に移ると例えば木材と竹との関係で考察される。論を拡張しすぎじゃないかな。他にも「いき」とchicなどの言葉の対比においては意味内容の差を一つ一つ拾い上げていくのに江戸の「いき」と上方の「粋」についてはほとんど考察せずに同一の意味内容としてたりする。そうして結局「いき」という言葉を日本固有の民族性を表すものとしていくわけだけど、いやぁそれは国内における文化の植民地主義じゃないのかなーなんて思ったり。確かに面白い本だったけどこうした点はもう少し詳細に検討される必要があると思った。ま、僕の読みが致命的に足りないのかもしれませんがね。
でも第四章は非常に面白い。九鬼は例えば裸体に靴下だけのようなものは裸を隠そうとしていないので「いき」ではないとし、「いき」なのは着物の裾から素足が見えることだと言うのです。これってチラリズムですよね。で、前者はフェティシズム。つまり九鬼はコスプレよりもパンチラの方に興奮する人だったわけです(笑)。・・・もちろん冗談ですが。でもほんとに第四章はエロ論として笑いながら読んだ。