『扉は閉ざされたまま』石持浅海 ≪評価:2≫

扉は閉ざされたまま (ノン・ノベル)

数年振りに顔を合わせ、喜び合う大学時代の仲間たち。しかし当時からリーダー格だった伏見亮輔は、この機会に後輩である新山和宏を殺害する計画を練っていた。そして彼を部屋で事故死に見せかけて殺害し、密室にすることに成功する。ここまでは計画通り、後は朝まで待って警察が事故死と判断するのを待てばいいはずだった。しかし仲間の一人、碓氷優佳だけは疑問を抱き、伏見の当初の計画は徐々に崩されていく。彼女に対抗し、計画を修正していく伏見と様々な矛盾や疑問を提示していく碓氷。果たして密室の扉はいつ開かれるのか。

というわけで石持浅海の第5作。うん、ひとまず彼の作品は全て読んでるわけなんだけれど、この辺りで作風というか構成方法がはっきりと見えてきたかな、と思う。先に今作の感想を書いておくなら、面白かった。物語としての結末を除くなら(笑)。
まず皮肉などではなく純粋な必要性から密室を開けない、という発想や散りばめられた伏線、そして論理性を重んじた推理の積み重ね等は相変わらず上手い。デビュー作から見られたクローズドサークルの必然性なんかを見てもわかるように本格ミステリのコードから少しずれてみせ、その上で本格を作り上げる力があると思う。
で、彼の作風だけれど、詳しく言うなら『月の扉』、『水の迷宮』、今作という流れで考えた場合、この作品に彼の特徴が非常に顕著に出てるんじゃないだろうか。それは巽の言うような、探偵役と犯人役が事件の両極端にあるという構図だと思う。探偵と犯人が極度に肥大していて、それ以外のものは彼らを引き立てるためだけのもの、あるいは彼らによって捨象されてしまうだけのものという関係。もちろん、その構図は巽の言うように90年代本格ミステリでも見られたものだけど、では石持の場合、何故それが顕在化するのか。それはクローズドサークル、閉じた関係性の中で事件が進行すること、探偵(や犯人)の描かれ方、また最終的に探偵と犯人が結託し、共犯関係に陥ってしまうことなどのことからだと思う。
ん〜書き方が回りくどいか。まず限りなく閉じた関係性の中で事件が起こる。そしてミステリである以上、その事件を作り出した存在と解く存在(細かく分けると大変なので)犯人と探偵とがいる。そして探偵役は何らかの形で自らの明敏さを読者と登場人物に提示する。ここまでは通常の本格ミステリでもよく見られる展開かもしれないが、多くの場合、探偵役に対する懐疑の視線が向けられており、この視線が読者及び登場人物にある種の客観的な視点をもたらしている。しかし石持の場合、その一種のブレーキがないために探偵役がその関係性の中であまりにも特権的な存在となってしまう。そしてさらに(ここが重要だと思うけど)その特権的な存在が結末において、自らの権力を無造作に行使してしまう。これがつまりは『月の扉』や『水の迷宮』に感じられた新興宗教的な図式になるんだと思う。
おそらくこれは探偵役が推理の権力だけではなく、物語の権力をも手中に入れてしまうということなんだろうな。だって肥大化した探偵と犯人が争って、最終的に探偵が自らの権力を使って「〜しよう」と言い、他の登場人物がそれに対してさしたる疑問も持たずに従ってしまう。これって新興宗教的に何か物語を作ってしまうということと近似だと思う。今作では倒叙形式ということもあって、こうした特徴がはっきりと出てるんじゃないかな。僕はこうした部分が好きじゃないので、あまり評価できません。