昨日の続き

『自由を〜』を2/3ほど読んで少し整理できたかな。つか、この「アーキテクチャ」てのがフーコーの「生権力」と繋がっていくのか、なるほど。実は後期フーコー、あんまり読んでないですorz。ちゃんと読もう。昨日書いたことは、批判ではなく、さらに「管理化されて得られる自由」てのに主眼があるわけでもなく。レッシグの言う統制方法は昨日の分類で言うと「法」→「アーキテクチャ」の順で統制された側が自由を感じやすい、ということになっている。だから管理化されることで自由が生まれる、という発想で進めてもいいけどそれとは違う点から見て、その自由てのはつまりは「環境」統制で相対的に感じられる自由なんじゃないのか。統制されているにもかかわらず自由を感じてしまうという、巧妙な部分こそ注意深く見ていくべきではないか、ということですね。ま、動物化云々の部分は大雑把な思いつきなんで。