ロック・フェスティバル

友人の卒論が冊子になったのでもらって読んだ。んで読んで感じたことを。題は「可能性としてのロックフェスティバル」てことで主にフジに関してのもの。
前半部分は「祝祭化」「管理化」「モラル化」という三つの点からフジを見ていく形になっている。この内、「管理化」の部分では管理化されることで観客が自由を感じることになるというどこか弁証法的な流れになっている(正確に言うなら相対的に自由度が高い、高くされてると言っているので弁証法とは違う)んだけど、こうした部分はレッシグの言う「アーキテクチャ」で考えるといいんじゃないか。レッシグは確か『CODE』で社会統制方法を四つに分けていて(「法」「規範」「市場価格」「アーキテクチャ」)「アーキテクチャ」とはつまり環境によって人を管理するという方法。もちろん「規範」という側面もあるわけだけど、例えば論文中でも少し出てきているブロック制ではないことも含め、行ったことがある人はわかるように様々な環境面での管理が実は為されている。それでも観客は自由をそこに感じてしまう。最近、よく言われているようにこれはフーコー的規律権力とはまた違った形での権力になっているんだろな。それと合わせて感じてるのが、観客の動物化ってこと。これは別にフジとかに限ったことではなくて割と一般レベルでもそうだと思う。音楽(いわゆるロック)ていうのは、昔はそれこそカウンターカルチャーとしての面が強くあったわけだけど(おそらく邦楽の歌詞にそうした点を求めている人ってのはいまや少ないのでは、と思う。だから例えば今ブルーハ―ツや尾崎豊のような存在は出てこない)今はそうした面が非常に薄れていて、その結果かどうかはわからないけど聴くものの欲望、身体と直接的に繋がるようなものになっているんじゃないか。(この辺、大きな物語の凋落とも重ね合わせられるのかなぁ)これはつまり動物化なわけで。(音楽的な部分からも考えないといけないだろうけど省略。)フジに行くような人は、世間一般的には音楽をある程度聴いている人になるだろうけどそうした人たちに音楽に何を求めているかと質問したら、例えば踊れること、気持ちいいことといったような身体性に直結するような答えが返ってくる気がする。結局、フジという〈場〉を動物化した人間をアーキテクチャによって管理するという〈場〉として考えることも可能では。そういった意味で論文の最後を、フェスティバルと社会を繋ぐというような形でまとめなくてもよかったかなと。この辺り詳細に音楽雑誌を見て、メディア論と絡めて考えていくと面白いと思う。まぁでも雑誌のモラルについての呼びかけなんかは主体(subject)の問題になるのかな。そうした環境を作るというよりは、雑誌や運営側の呼びかけ→読者に広がる、または公式サイトのBBSでそれを観客側が呼びかける→観客の多くが主体的に(でも実は従属化)そうしたモラルに気をつけるようになる。といった具合で。
ん〜感じたことをざっと書いただけだけど、このロックフェスティバルという現象は突っ込めばかなり面白いんじゃないか、とずっと思ってるのです。他にもフジの始まりがグラストンベリーの模倣であり、そしてフジが成功した後はその模倣によって日本に広まったこととか。『自由を考える』がこうした方向の話になっているようで、そうした関係の本をいくつか読みながら少し読み始めたんだけど、それと重なり合ったのでなかなか面白かった。