「脱格」系

こんな書評を読んだ。(Mystery Laboratoryより)

果たしてこれはどうなんだろう。たぶんネット上を中心に反論とか疑問の声が多く出てくると思う。かくいう僕も疑問に感じているし。
前提として、二階堂氏は「脱格」系と「キミとボク」派をイコールで結んでいる。まずそこの定義の仕方が間違っていると思うのだ。

《脱格》というのは、《脱・本格》のことで、本格推理小説の持つ様式美とトリック中心主義からあえて離れよう、あるいは、意図せずともそこに達することのできない作家たちの心情や技術的未成熟さを看破したものだ。《キミとボク派》というのは、書かれている内容が、作者を中心とした身近な体験ばかり−−たとえば、親子関係、兄弟(姉妹)関係、生徒と先生の関係といったことばかり−−であることを端的に表現したものだ。

彼はこう定義しているけど、これでは「脱格」系=「キミとボク」派にはならない。例えば積木鏡介の作品なんかは「脱格」系にはなるけど「キミとボク」にはならないはず。確かに最近の「脱格」系の作品、つまりは佐藤友哉西尾維新に代表されるような作家に「キミとボク」の傾向があるのはわかる。でもそこでイコールにしてしまうのはおかしい。それにこの文脈では「キミとボク」の関係を書いた作品は社会的経験に裏打ちされた作品に劣る、と読めてしまうがそんなことはないはず。「キミとボク」を書いた作品にも優れたものは存在する。まぁ二階堂氏は自作『猪苗代マジック』の巻末インタビューでは、「新本格」初期の作家にもそうした傾向があったことを認めた上で「キミとボク」派も彼らのようにその作風を広げていってほしいと結んではいるんですが。とはいうもののここで評されている乙一をこうした文脈で語れるんだろうか。乙一の作品が彼の身近な体験に根ざしたものだったら大変なことになる。もちろん年配の人が佐藤友哉西尾維新なんかの作品を読んで「未熟」とか「わからない」と感じることはしょうがないかもしれない。でもそう感じたからといってそれを不当に評価することは間違ってる。二階堂氏の作品には面白いのがいくつかあるし(『吸血の家』とか『人狼城の恐怖』は好きな作品)作家としては別に嫌いじゃないけど、本格ミステリの作品なんかに対する評価には疑問を感じることが多いなぁ。