『dancer in the dark』

ダンサー・イン・ザ・ダーク [DVD]
ビョークが主演したことでも話題になった映画で、知ってる人も多いかと思われます。今回、一応レビューと銘打ってはいますが作品内容についてどうこう言うつもりはありません。観ながら漠然と考えたことを記しておこうと思います。それからこの作品のラストシーンや展開について触れるので、未見の方で先入観を持ちたくない方はご注意を。

この映画についてはアマゾンのレビューを見てもわかるように賛否両論となっています。大雑把に見るなら、それらの感想は「感動した」「救いようのない話だがいい映画」「救いようのない話で受け付けない」といった三種類に大別されるような気がします。もちろん多様な感想は当然です。ただ僕が今回この作品を観ながら考えたことは、このように評価が分かれるのはこの作品の構造がそうさせているのではということです。そしてそれはつまり、監督の意図の一つだったのかもしれません。読者や観客がある作品に感動するとき、そこには多かれ少なかれ感情移入という側面が働いています。そしてその多くは主人公と自らを重ね合わせることで為される。ここではその主人公とはセルマになるわけです。しかしこの映画ではセルマへの感情移入が作品構造の段階からしにくくされているように思えます。その構造とはホームビデオ的な画質の荒さ、そして手ぶれです。それから何度か挿入されるミュージカルの場面。感情移入するということは物語に入り込むことでもあると思いますが、上記のような特徴があることで観客はたびたび自らが観客であることを否がおうにも認識させられます。画質の荒さや手ぶれは目の前のものが撮影されたものであることを強調し、ミュージカルは観客が観客であることを強調する役目を担っている。そしてラストにおいてセルマは死刑を執行されるわけですけどここでセルマ自身の立場に立つなら彼女は幸せだったと僕は考えます。息子の目を治すという一つの存在意義が達成され、彼女自身も歌に包まれて平穏を取り戻すわけですから。(まぁ北村薫『盤上の敵』のヒロインが最後正気を失っていると読んだ笠井潔のようにセルマも狂気の淵に行ってしまっているという見方も可能ですが。それも一つの幸福ではあるはずです。)しかし作品構造によってセルマへの感情移入が阻まれる観客はセルマの外から眺めざるを得ず物語に対して理不尽な思いを抱くわけです。そしてそれがそのまま人間の邪悪さとでも呼ぶべきものに繋がっている。ストレートに理不尽さや人間の邪悪さを描くのではなく、ひねくれた構造からそれを浮かび上がらせるという手法を、この監督が取っているのかなと考えて非常に面白く感じた次第です。で。ラストはセルマの首吊りの場面で終わるわけですけど、これが素直に感情移入出来ずに宙ぶらりんな立場にある観客や、そうさせる作品構造の象徴にもなってるのかもしれません。宙ぶらりんとはつまりはハッピーエンドとサッドエンド、あるいは物語に入り込みつつも観客であるということこのような二つの間で宙吊りにされているということです。ともかく僕は一筋縄で行かない映画だと思います。ますます『ドッグヴィル』が観たくなってきました。あれも衝撃の結末みたいなので。もうレンタルしてるんでしょうかね。近いうちに探してこよう。